by Junji Okamoto

「1点刻みの知識偏重型から、能力や適性を含めた総合評価型へ」: [2013/12/31]

1 教育再生実行会議(第四次提言)

2013年10月31日、 教育再生実行会議 は「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」 (第四次提言)を行った。その内容の概略をまず、以下のニュースの引用で見てみよう。

2段階の新試験提言=大学入試、総合評価へ転換を - 再生会議
 政府の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)は31日、 大学入試や高校・大学教育の改革に関する提言を安倍晋三首相に提出した。 高校在学中に複数回受けられる「基礎」「発展」の2段階の達成度テストを新たに導入し、 「発展」を現行の大学入試センター試験に替えて実施するよう提案。 1点刻みの知識偏重型から、能力や適性を含めた総合評価型への制度転換を求めた。 同会議の提言は4度目。  安倍首相は「小学校から大学までの教育全体を変えていくことにもつながる。 受験生、保護者らにしっかり説明しながら具体策の検討に着手してほしい」と述べた。  具体的な制度設計は、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)に委ねられる。 下村博文文科相は「現役高校生への適用は考えていない。周知に十分な期間を取る」 と述べており、導入には早くても5年程度かかる見通し。  提言によると、「発展レベル」のテストは受験生を段階別の点数グループに分けて評価。 大学側が学力把握に活用し、面接や小論文、ボランティア活動などを多面的に評価し入学者を選抜する。さらに、 英語などでの外部検定試験の活用や将来的なコンピューター方式での実施にも言及した。 (2013/10/31-20:49)
出典:時事ドットコム、 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201310/2013103101018

簡単に言ってしまえば、現在行われている大学入試センター試験を廃止して、 「2段階の達成度テスト」を導入する、というのだ。 そこでは、「1点刻みの知識偏重型から、能力や適性を含めた総合評価型への制度転換」を求めるという。

この提言を読み、またか…、という思いを強くした。 一見すると、非常にもっともな提言だと感じる人もいるだろうが、 それはこれまでの日本の「教育改革」が、 いかに日本の教育を駄目にしてきたかを身をもって知っている人たちにとっては、 またまた「教育破壊」をやるつもりなのかと呆れ果てることになる。

2 なぜ、この提言は駄目なのか?

現在の大学入試センター試験(=「大学入学者選抜大学入試センター試験」)は、 その前身である共通一次試験(=「大学共通第 1 次学力試験」)が 「難問・奇問を廃する」ことを目標として1979年から始まったもので、 1990年からは大学入試センターの実施するものとなった。 大学入試センター試験は、記述式の問題ではなく、 全教科・全科目で解答をマークシートに記入する形になっていることは有名で、 これで<難問・奇問を廃し>、<基礎学力を確認することができる>とみなしている。

また同じ過ちを犯そうとしている、と思わせるのは、 「1点刻みの知識偏重型から、能力や適性を含めた総合評価型への制度転換」 というフレーズを聞いた時だ。 そう、すでに共通一次試験の当時から、日本の教育方針は、 知識偏重型の教育をやめる という目標を掲げていたのだ。

何が根本的に間違っているかというと、それは以下の 3 点にあると思う。

(1) 記述式問題を排除してしまったこと、
(2) マークシート方式の回答で十分に知識を測れると思い込んでしまったこと、
(3) 知識軽視型の教育システムへ進んでいること。

(1) と (2) は、どちらも採点に関連するものの同じ問題ではない。 記述式の問題の採点は、基準作りから採点まで手間がかかり大変である一方、 マークシート方式の採点は、マークシート・リーダーでコンピュータ化され短時間に終了する。 他方、問題を解く側からすると、記述式問題の場合、設問の理解から始まって、 どのように解答を展開するか構想しなければならず、さらに鉛筆を使って文字を読めるように書かねばならない。 マークシート方式は、鉛筆で正解であると思った該当箇所を塗りつぶすだけである。 場合によっては、何も考えずにどこか任意の箇所を塗りつぶすことすらできる。

「記述式の設問」と「マークシート方式の設問」は、作る側からするとどちらも大変だが、 意外にも「マークシート方式の設問」の方がしばしば手間がかかり難しい。 つまり、特定の部分を選択枝として提示し、それが的外れではないように見せる必要があるからだ。 「記述式の設問」でも、特定のテーマに絞った形で解答させるのは大変だが、 細部に関しては採点会議の時に具体的な解答を見ながら採点方針を臨機応変に決めることができる。

(1) と (2) の背後には、入試にかかわる仕事を早く終わらせたいという要望、あるいは欲求がある。 なんで、ただでさえ研究と教育に忙しいのに、入試でこんなに時間を取られなければいけないのか、という不満もある。 入試問題を作成し、優秀な学生をハントするために一年中さまざまな高校を回っているような専門家がいれば、 その人達に任せられればいいのだが、日本の大学ではそのような制度になっていない。 これは、事務局でも同様で、入試課といっても実際の入試にかかわる事務的仕事に追われているので、 長期的視点にたった仕事をするだけの余裕がない。

(3) は、繰り返し出てくる話題で、<知識重視型の教育が悪である>という発想に基づいている。 背景にある考え方は、こうである。

A. <知識重視型の教育をする>と、<入試に難問・奇問が出てくる>。
B. <入試に難問・奇問が出てくる>と、本来必要な<基礎学力の範囲>を超えてしまう。
C. <知識重視型の教育をする>と、<受験生は覚えることだけに集中してしまう>。
D. <覚えることだけに集中してしまう>と、<創造性のある思考ができない>。

この発想の基本的な間違いは、知識の獲得を重視した教育は、創造性のある思考を育まない という誤った信念にある。[2014.1.1.修正] 適切な知識を持たない人間に、創造的な思考などできない。

同様の趣旨の発言は、藤原正彦の管見妄語(週刊新潮 11月7日神帰月増大号 42, 2013, P. 18-19.)にも見られたので一部を引用しておこう。

教育再生実行会議が大学入試改革を検討中だがその素案が新聞に発表された。 まず大学入試センター試験を大幅に見直し、現在の点数表示から一定幅のランク表示にすること、 二次試験の一点差で合否が決まることになるのを防ぐため面接や論文で意欲や潜在能力などを見て選抜を行うよう大学に要請するというものだ。 知識偏重では国際社会に生き残れないためという。
 「またも出たか知識偏重」が第一印象だ。ここ三十年ほど、 知識偏重はしばしば批判の的となってきたが、知識偏重とは何のことだろう。 今、日本重の大学教官は、 小中高の教育を受けて大学に入る学生の余りの知識や応用力のなさ、すなわち学力の低さに頭を抱えているのだ。 教育において最も大切なことは文句なしに知識を授けることだ。 何の理由も言わず、奨学生のうちに九九や少数分数を叩きこまなくてはならない。 画一的でも強制的でも一向に構わないのだ。中学高校では歴史や科学の知識を授けそれを使って考える力を培わなくてはならない。
出典:藤原正彦の管見妄語(『週刊新潮』 11月7日神帰月増大号 42, 2013, P. 18.)

教育者なら、おそらく誰もが感じていること、 それは、今の生徒、学生達の「知識の無さ」なのだ。 「なんでこんなことを知らないのだろう?」 「小学校で習わなかったのだろうか?」 「中学校で習わなかったのだろうか?」 「高校で習わなかったのだろうか?」 「いったい何を勉強してきたのだろう?」

さらに、教員同士の話し合いに発展して「今の学生は、こんなことも知らないんだ!」 とか、「いや、もっとすごい。こんなことも知らないんだ!」 という自慢合戦になってしまうこともある。

それは、元を正せば、「こういうことは覚えなくてもいいからね」 という指導があるのではないか。 あるいは、「勉強は暗記じゃあないんだよ」 という指導、あるいは、了解があるのではないだろうか?

藤原正彦氏のように、「教育において最も大切なことは文句なしに知識を授けることだ。」 とまで、私は思わないが、「教育において知識を授けることは極めて重要なことだ」と思っている。 繰り返すが、創造的な思考は、その知識を元にして行われる、と私は考えている。

「知識の軽視」を教育に持ち込んで、「ゆとり教育」を進めた時代があった。 しかし、その前から、そしてその後も、教育改革の背景には「知識の軽視」 の流れがずっと存在してきた。そして、このIT社会において、 ますます「知識の軽視」は進んでいる。 これは、少し大袈裟に言えば<人類の危機>でもある。

分からないことがあったら、Google に尋ねる。 Wikipedia が答える。あるいは、xxxの知恵袋が答える。 1つの答えを知ったら、 満足してそこから先には一歩も進まずに終わってしまう。

これでは、知識が身につかないばかりか、 本当に何が「分からなかったのか」すら、 分からず仕舞いである。 ネットで検索して出てきた結果が果たして正しいのかどうかを判断するためにも、膨大な知識が必要である。 この知識を授けるのは教育でなければならない。 「知識を授けることを重視」した教育こそ必要で、 その知識を試す試験は必要である。 粗い A, B, C ランキングなど示されても、知識を積極的に身につけようと いうインセンティブには結びつかない。

3 「多様な方法による入学者選抜」という偽善

今回の、教育再生実行会議による第四次提言は、 官邸HP 教育再生実行会議提言 からリンクをたどり PDF ファイルでダウンロードできる。 そこには、以下のような「多様な方法による入学者選抜」のあり方が示唆されている。

○ 各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、 面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動 (生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、 大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、 これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、 企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する。
出典:「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について(第四次提言)平成25年10月31日教育」 P. 7-8.

「多様な方法による入学者選抜」をより促進させることをうたった部分だが、 このような「学力水準の達成度」以外の判定は極めて難しい。 その典型は、面接である。 再度、藤原正彦氏に登場願おう。

 面接で意欲や潜在能力を見抜くというが不可能と言ってよい。 そもそも三十分の面接で生徒の人間性を見抜けるなどと思うのはおこがましい。 傲慢だ。面接をするなら人間本位でなく学力に関する口頭試問だ。 人物本位となったら、当たり前のことを質問されたのを侮辱ととり、 激怒して黒板消しを試験官に投げつけた(見事命中したらしい)あのフランスの大天才は絶対落第だ。 群論を考案し現代数学の扉を開きながら、女の問題で決闘し二十歳で死んだガロアだ。常にゴム長をはいていた天才岡潔も、 常に裸足の天才グロンタンディークもダメだ。私の知人友人の中でも、 躁鬱の激しいイギリス人のあの天才や、どもりがひどくて誰も聞き取れないイギリスやオランダのあの天才は落第だろう。 [...]
出典:藤原正彦の管見妄語(『週刊新潮』 11月7日神帰月増大号 42, 2013, P. 18-19.)

藤原正彦氏は、この後もたたみかけるようにいろいろな著名な数学者を出してくるが、 学問的に優れた人達が必ずしも面接でいい点数を取りそうもない人達になる可能性があることは、よく理解できる。 さらに、そもそも短時間の面接で、学生の資質を見抜くのは至難の技で、 学生一人あたり30分もさけない大学は世の中の大多数なので、 ますます面接で「将来性のある学生」を見つけ出すのは困難であろう。

では、面接は無意味か、と言われるとそうでもない。 ただ、面接で人を見抜くのには時間がかかるので、何回も繰り返しいろいろな場面で入学希望者と会って話をすれば、 それなりの情報は得られ、そこから学生の資質を見抜くことができるだろう。 重要な点は、面接で(将来有望な)学生を見つけ出すのには、時間と手間がかかる、ということである。 「入学者選抜」を多様化しても、学生の質の低下は避けられないだろう。 それは、(将来有望な)学生を「多様な選抜方式の中で」見つけ出すのは困難だからだ。 それよりも、きちんとした「知識重視型」の記述式試験を課した方が、 確実に(将来有望な)学生を選抜できる可能性が高いと思われる。

4 結論:教育には時間をかけることが肝要

教育再生実行会議による第四次提言の第1ページには、「本来の趣旨と異なり事実上学力不問の選抜になっている一部の推薦・AO入試」 との言葉が見える。まさにその通りだと思うのだが、 今回の提言は、「事実上学力不問の選抜」をますます増やすことにつながるのではないか。 これは、知識軽視型の教育路線を知識重視型の教育路線へと修正することで、初めて直すことができる。 また、「試験問題データを集積しCBT方式で実施する」(第四次提言, P.7)ような方法ではなく、 従来の記述式問題を復活させ、じっくりと時間をかけて学生選抜を行うことができなければ、 優秀な人材を大学は確保できないだろう。

一人の人間を正当に評価するには、多くの時間がかかる。 本来の AO 入試は、長期的に一人ひとりの学生を追跡調査して、 何回も面接をすることで人物評価をするものだったはずだ。 それだけの時間がかけられないのは、専門家を雇っていないからだ。 本当に、そのような形で将来有望な学生を探すのなら、そのための専門家を大学で雇えるようなシステムを文部科学省はバックアップすべきだろう。 新たに巨大なコンピュータ支援システムの入試を導入すれば、 巨大な予算が必要になり、メーカーが喜び、ソフトウェア関連の企業も喜ぶかもしれない。 しかし、人間を評価するには、人間が時間をかけてやる以外に最良の方法はないのだ。

大学で学生を教育するのにも、当然、同様に多くの時間を必要とする。 大量の学生を一瞬にして評価する、なんてことは、 できたとしても信用に足る結果にはなっていないはずだ。 速さを求める社会、すぐに結論がでるのを良しとする風潮は、 残念ながら教育には逆風である。 そんな逆風の中で、知識の大切さを説き、 獲得した知識を使って創造的な研究、仕事ができるような学生を育てたい。

残念ながら、このような教育は一人ではできない。 せめて、「教育再生実行会議」が日本の教育をこれまで以上に破壊しないことを祈っている。
なお、「教育再生実行会議」の英語教育に関する提言の恐ろしさは、 大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖美子著 (2013)『英語教育、迫り来る破綻』ひつじ書房. に詳しく述べられている。


教育基本法改悪を憂う: [2006/05/05]

Heinrich Heine
Ich hatte einst ein schönes Vaterland....

Ich hatte einst ein schönes Vaterland.
Der Eichenbaum
Wuchs dort so hoch, die Veilchen nickten sanft.
Es war ein Traum.

Das küßte mich auf deutsch, und sprach auf deutsch
(Man glaubt es kaum
Wie gut es klang) das Wort: »ich liebe dich!«
Es war ein Traum.
Aus: Gutenberg-Projekt, http://gutenberg.spiegel.de/heine/gedichte/hh000077.htm

  1. 「思考回路1」価値観の崩壊と,フツーの人
  2. 「思考回路2」価値観の崩壊と,一部の政治家たち
  3. 背景
  4. 愛国心の強要というナンセンス
  5. 教育の「目的」と「目標」の違い
  6. なし崩しの一言
  7. 教育基本法改悪

1 「思考回路1」価値観の崩壊と,フツーの人

多くの伝統的価値観が崩壊している.

はっきりしているのは,「利潤追求を求めるための効率化は善」という価値観だけ.

「きもちいい」,「たのしい」,「おもしろい」 という感覚だけが,確かなものとして生き残る.

そんな中,本気で社会・政治・教育をよくしよう頑張るのは,
「無理だ」し「うざい」.

どうせ「どうあがいても変わらない社会」なら,
思い切って「たのしんで」自分の人生を過ごした方がまし.

他人なんてどうでもいい.

日本代表,がんばれー.

外国なんて負かしちゃえー.

日本チャチャチャ.日本チャチャチャ.

2 「思考回路2」価値観の崩壊と,一部の政治家たち

多くの伝統的価値観が崩壊している.

さまざまな社会問題も,この価値観の崩壊に原因がある.

日本には,日本の独自のすばらしい伝統的価値観があった.

今,その伝統的価値観が,失われつつある.

これは危機だ.

「日本の良さ」を復活させれば,現代のさまざまな社会問題も解決するはずだ.

そんな中,本気て社会・政治・教育をよくするためには,
法律を改正するしかない.

憲法を改正しよう.

教育基本法を改正しよう.

テロを防止するためには,何でもやっちゃおう.

共謀罪があれば,盗聴法があれば,国家の名のもとに, 何でもできちゃう.

国旗を掲げ,国歌を歌い,ニッポン万歳.

外国なんか,負かしちゃえ−.

日本チャチャチャ.日本チャチャチャ.

3  背景

多くの伝統的価値観が崩壊している.

それに追い打ちをかけるように,近年,さまざまな制度や組織が, その本当の価値を評価することもなしに,「改革」,「改正」という名の元に破壊されている. はっきりしているのは,「利潤追求を求めるための効率化は善」という価値観だけ. 「きもちいい」,「たのしい」,「おもしろい」という感覚だけが生き残る.

教育基本法の改変がなぜ今,急遽浮上してきたのかは, 思考回路2の文脈で理解されねばならない. そもそも民主主義社会では, 「民(たみ)が国を作っている」 という最低限の憲法に保障される理解があったはずだ. それが,今では,「国が民(たみ)を統制して当然だ」という世の中に変わりつつある.

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大学生の学力低下:科学技術立国を目指す日本の宿命?: [2005/12/12]

There will be no art, no literature, no science. When we are omnipotent we shall have no more need of science.
George Orwell "Nineteen Eighty-Four." P.215

  1. イントロダクション
  2.1 科学技術とは何か?
  2.2 科学技術の原動力
  2.3 科学技術の発展:その結果もたらされる社会
  3. 科学技術社会は,かくして教育を否定する
  4 結論

1. イントロダクション

2005年11月14日に, 「大学生の学力低下 教員の6割問題視」という記事がasahi.com (および朝日新聞)載った.その初めの部分を以下に引用する.

「大学生の学習意欲と学力低下」のテーマで、柳井晴夫・大学入試センター 教授らの研究グループが全国調査した結果、大学教員のうち10人中6人が学 生の学力低下を問題視していることがわかった。工学部や経済学部の教員が多 いのに比べ、医学部では少ないなど学部間でかなり開きがある。公私立でも国 公立に比べて私立が深刻な実態が浮き彫りになった。

まず,ここで紹介されている数字を整理することから始めたい.念のために付け加えて おくが,この調査の一次資料を直接入手したわけではなく,記事に書かれている 範囲の数字を整理しただけであるので,不正確な所があるかもしれない.

調査対象:約400校、600学部の教授、助教授
回答を得た数:合計11,400人(国立5,000人、私立5,300人、公立1,100人)
調査時期:2003年から2004年

質問:「所属学部で学力低下がどれだけ問題になっているか」
◎ 全体での数

「授業が成り立たないなど深刻な問題になっている」 --- 8%
「やや問題になっている」 --- 53%

◎ 「深刻な問題」と「やや問題」を合わせた場合の国公私別分布

        全体--- 61%
  国立 --- 56%
  公立 --- 44%
  私立 --- 69%

◎ 「深刻な問題」と「やや問題」を合わせた場合の学部系統別分布

       理,工---75%
 情報---71%
 経済・商---67%
 外国語---64%
 社会---64%
 教育---50%
 体育---49%
 保健・看護---46%
 医学---38%

◎ 学力低下の内容

        (1) 自主的に課題に取り組む意欲が低い
  (2) 論理的に考え表現する力が弱い
  (3) 日本語力、基礎科目の理解が不十分

◎ 傾向と教員からの要望
 ・全体で見ると、年齢が高く、教員歴も長いほど、 また専門より教養教育に携わる教員ほど学力低下を強く感じる.
 ・大学の専門の勉強に備えて高校で学習する必要が高い教科として、 外国語と並んで国語が突出している.

大学生の学力低下が指摘されたのは,もちろん今回が初めてではない. かなり以前から,その傾向は存在していた. いったいなぜ学力低下が起きているのか, という問いに関しては,大学入学以前の段階での学力低下が原因である, という話で終わってしまうことが多い.

大きな視点から見て,ではなぜ子供達の学力低下が起きているのだろうか? 小,中・高の学校の責任なのか? 教育システムの責任なのか? 私は,教心ネット (学校心理学のページ)の中で主張されているように, 「学力低下ではなく『意欲低下』が国を滅ぼす」という考えに同調する. 同時に,(1) 「意欲低下」が学力低下の1つの大きな原因であり, (2) 「意欲低下」は,科学技術偏重社会が誘発している,と考える. この原因と結果の連鎖は,必ずしも一義的に成立しているわけではない. しかし,無視できない十分な関係があると思う.もし,この考えが正しいなら, そして,日本政府が国をあげて「科学技術立国」へと邁進すればするだけ, 日本の教育は荒廃していくことになる.

2.1 科学技術とは何か?

「科学技術」とは,科学に裏付けされた「技術」を表わすと考えられるが, 国語辞典には,意外に項目として載っていない.その理由は,「技術」の項目に, すでにその意味が下位区分されて記述されているからに他ならない. 『明鏡国語辞典』の<ぎじゅつ(技術)>の項目は,次のようになっている.

ぎ-じゅつ【技術】[名]
(1) 物を作るわざ。また、物事を扱い、処理するわざ。「運転を身につける」 「表現を磨く」
(2) 科学理論・知識を実地に応用し、人間生活に役立たせる方法・手段。 科学技術。「先端」「革命」

確かに,「物を作るわざ」こそ「技術」の本質的特徴であるように思えるが, それでは,「わざ(=技)」とはなんだろう. 『明鏡国語辞典』の<わざ(技)>の定義は,残念ながら同語反復でしかない. もっとも,何冊かの国語辞典を見ても,状況は同じで,「わざ」=「技術」 となっている.

わざ【技】[名]
(1) ある物事を行なうために必要な技術・技能。「をみがく」
(2) 柔道・相撲などの格闘技で、勝敗を決めるために仕掛ける攻撃の型。 「が決まる」▼「業」と同語源。
わざ【業】[名]
(1) ある意図をもって何かを行なうこと。所業。「神のなせる」「至難の」「人 間
(2) 仕事。職業。「漁をとする人」▼表現 個々の技術をい う「技」に対し、「業」は何らかの意図に基づく行為の全体をいう。 …(以下,用例省略)…

そこで,たまたま手元にあったOxford Advanced Learner's Dictionary. (6th edition)technique の項目を参照してみた.当然ながら,「技術」や「わざ」とは違った意味がある 可能性もあるが,テクノロジー(=技術,technology) と考えると,それと共通語源の語からヒントが得られると考えた.

tech-nique/tek'ni:k/ noun
1[C] a particular way of doing sth, especially one in which you have to learn special skills: The artist combines different techniques in the same painting. ¤management/marketing techniques
2[U, sing.] the skill with which sb is able to do sth practical: Her technique has improved a lot over the past season.

1 の意味の説明は,「何かをやる特定の方法, 特に特別な技能(=skills) を学びとらねばならないようなもの」となっている. 2 は,1の意味の限定的な意味であり「誰かがそれを使って, 何か実用的なものをすることができるような技能 (=skill)」となっている. 「技術」の中に含まれるような「科学技術の意味」は, techniqueに欠けているが, 日本語の「物を作るわざ」,「ある物事を行なうために必要な技術・技能」 と,英語のa way of doing something, especially one in which you have to learn special skills. という基本的部分は共通している.

ここで浮かび上がってきた「技術」の2つの側面とは, 何かをする(典型的には,何かを作る)方法と, それをする人間の能力であると言えるだろう. そして,科学技術とは,「科学で得られた知識を応用し、 人間生活に役立たせる方法・手段」であるり, 技術開発にたずさわる人たちは,科学から得られた知識を (典型的には)あるものを作り出す方法 として利用している,と言えるだろう.

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本当にこれでいいのか? 人文科学の根が絶えつつある日本: [2005/11/23,24]

  1. イントロダクション
  2. 吉田氏の視点
  3. 吉田氏の視点に欠けるもの   3.1 人文科学系専任教員の削減   3.2 非常勤講師の削減?
  4. 結論

1. イントロダクション

10月中旬,かつての教え子A氏から,突然一通のメールをもらった.

今、私が担当している○○大学の非常勤講師の仕事が、今年度いっぱいで終了することになりました。 △△学部が来年度から□□制になるので、それに伴いカリキュラムが見直されました。
(中略)
いまどき珍しい話ではありませんが、こんなに早く、自分のところにこういう事態がやってくるとは思いませんでした。
どこか勤められるところを探すことになります。... 水曜日に◇◇を担当している先生は今年度でおしまい、というような説明を受けました。...

A氏は,人文科学系の優秀な若き研究者である.将来的には,研究者として活躍できる素養を備えており, 大学での教歴を積む一環として, またわずかばかりの経済的支えを得るために2年前から○○大学の非常勤講師を始めた. そして突然の解雇通告.こんな時どうしたらよいのか, 他に非常勤講師の口はないものか,という相談だった. このような話は,A氏自らが述べているように,近年,決して「珍しい話ではない」. しかし,大学の非常勤講師をクビになり,その後,働き場所がないというケース を耳にすることが,近年,本当に多くなった.簡単にクビにできる非常勤講師という弱い立場も 問題だが,このような状況が続けば,人文科学系の後継者不足という 深刻な事態に拍車がかかるのではないか.

折しも,2005年11月18日の朝日新聞(私の視点)に1つの投稿記事が掲載された. この記事は,吉田量彦氏(倫理学)によって書かれたもので,吉田氏は, 現在,ある大学の非常勤講師という身分にある.以下では,まず彼の論点を要約し, このままでは日本の人文科学研究が,本当に根絶するのではないか, という危惧を,現在多くの大学で見られる「改革」と関連づけて考えてみたい.

2. 吉田氏の視点

吉田氏の投稿文のタイトルは,「◆研究者支援 人文科学のすそ野広げて」 というもので,2005年11月18日,朝日新聞朝刊の<私の視点>に掲載された. 以下,簡単にその内容を追ってみる.

1
人文科学分野の博士号取得者の多くは, 大学の研究者として就職することを望んでいるが, 近年全国の大学で行なわれている人文系専任教員の大幅削減が原因で, それが困難になっている.

2
その結果,彼ら(=人文科学分野の博士号取得者の多く)は, 非常勤講師(=いつクビになるかわからない不安定な身分のパートタイマー) として働くことを余儀なくされている.

3
かつては,非常勤講師のかけもちで生計を立てることもできたが, 最近の比較的若い世代では,本業と関係のないアルバイト(予備校や学習塾) に従事しないと生活ができない状況.しかも,そのアルバイトすら減少している.

4
今現在,人文科学研究者が博士号取得後に支援される制度がほとんどないので, 支援制度を充実すべきで,それがなければ次代の研究・教育活動を担う人材が途 絶えてしまう.

5
日本学術振興会の奨学・研究助成制度の問題点(I):
科学研究費補助金の使途が厳密に規定されているので,事実上,十分な収入を保 証された専任教員しか活用できない.

6
問題点 (II):
奨学金に年齢制限が設けられている(34歳未満)が,これは 人文科学分野では以下の理由から博士号取得に時間がかかることを考慮すると, 好ましくない.
理由: (1) 博士号取得のためのカリキュラムや教育システムの立ち遅れている, (2) 論文執筆に時間がかかる.

7
問題点 (III):
博士号取得者の海外研究支援制度にも,同様の年齢制限がかけられている.

8
提案:
奨学制度の応募資格を専門分野ごとに設定し直す(年齢制限を含めて). 同一分野内でも,博士課程修了者,在籍者,学位取得者,学位未取得者を分ける 必要がある.

9
人文科学研究者の生活を安定させ, 研究に従事する時間を確保することが必要だが, それは比較的少額の支援で足りるはずだ.
結論部分の最後の文を引用
「人文科学のさまざまな領域の研究者にこの支援が行き渡れば,時間はかかるが, 日本の人文科学研究全体が大きく活性化されると私は考えている.」

1〜4が現状分析,5〜7 が,日本学術振興会の奨学・研究助成制度の問題点,8 が提案で,9が結論となっている. 9の結論の中で, 「(人文科学研究者へは)比較的少額の支援で足りる」となっているのは, 「高価な研究機材や実験材料」を必要とする理系分野と比べた場合, 相対的に少額であることを述べただけであろう.

3. 吉田氏の視点に欠けるもの

吉田氏は,日本学術振興会の奨学・研究助成制度の問題点を指摘し, 改善を求めている.ポイントは,人文科学研究者支援において, きめ細かい分野別の対応を求め,奨学金や海外研究助成制度における年齢制限の見直しを迫っている. この点においては,私も賛成する.しかし, 現状分析の中で述べられた「人文科学系専任教員の削減」 が未解決な限り,「日本の人文科学研究全体が大きく活性化される」 どころか,日本の人文科学研究全体が一層縮小される のではないか.また,「非常勤講師市場の縮小」は, 経済的に不安定な非常勤講師という身分上の問題点はあるにせよ, 大学に就職する前に一定の教育経験を積む貴重な機会である. その貴重な機会が,人文科学分野では, さらに減少しているようなのだ.

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日本の小学校で、今、英語教育を導入すべきか?:--- 私の答え: NO!: [2005/10/26]

  1. イントロダクション
  2. 「外国語学習は開始年齢が早ければ早いほどよい」という迷信
  3. 1 「言語学習の仕組み」は、まだ分かっていない   2.2 「小学校での英語教育」を考える:2つのポイント
  4. 経験談:小学校で1〜2年海外で過ごした子供たち
  5. 「英語が使える日本人」を養成するにはどうしたらよいか?   4.1 自分で積極的にコミュニケーションをとろうとする姿勢を養う   4.2 英語を聞いて、聞いた内容に関する質問に答えられるようにする   4.3 英語を聞いて、その内容を自分の言葉で要約し説明できるようにする
  6. 結論

1. イントロダクション

2003年3月31日、中央教育審議会(以下、中教審)は<「英語が使える日本人」 の育成のための行動計画>を発表した。その概要は、 「英語が使える日本人」の育成のための行動計画(平成15年3月31日)(抜粋) で読むことができる。 今回、問題にしたいのは、 小学校における英語教育導入の動きが活発化しているという、 ほぼ10日前のNHKニュースを見たのがきっかけとなった。 そこには、言語獲得の研究で知られた O 氏が登場し、 手短に反対論を展開していた。後で調べて分かったことは、 小学校での英語教科化に反対する要望書(PDF)が、 2005年7月15日付けで、慶應義塾大学言語文化研究所から中山 成彬 文部科学大臣に宛てて提出されていたことだ。

「日本の小学校で、今、(正規の授業として)英語教育を導入すべきか?」と問われたら、 私は言語研究者の一人として、NO!と答える。 以下では、その論拠の骨子を述べる。

2. 「外国語学習は開始年齢が早ければ早いほどよい」という迷信

2.1 「言語学習の仕組み」は、まだ分かっていない

上記の慶應義塾大学言語文化研究所の要望書にもあるように、 「日本における英語学習のような外国語環境における学習に関する確固たる理論やデータは存在しない」 のが現状である。いわゆる「言語学習の臨界期」に関する研究は存在するが、 それとて一般的に通用するような定説とはなっていない。

なぜ、例えば、「16歳が一般に言語の学習の臨界期である」 というような学説が通用しないのか、というと、 「言語の学習」そのもののメカニズムの全容がまだ明らかになっていないからである。

人間は、言語を学びとる能力を備えて生まれてくる。言い換えれば、 特定の遺伝子情報によって、脳が「言語を獲得する仕組み」 を持っていると考えられている( FOXP2 のような言語獲得に関係する遺伝子が発見されているが、 まだ全体像を捉えられたわけではない)。 この考え方に従えば、ある言語が話されている環境があり、 そこから何らかの情報が「引き金」になって、 特定の言語を人間は獲得することになる。しかし、 どのような情報が、個人の獲得する言語を形成するのに必要なのか、 どれだけの量の情報が与えられれば、特定の言語を獲得できるのか、 そういった疑問は解けていない。

分かっていることの中には、喃語期(なんごき)の存在がある。 生後およそ3ヶ月頃から赤ちゃんの発する音声は、喃語と呼ばれ、 その後、およそ一歳ごろ母語をしゃべり出す少し前まで続く。 喃語期の初期には、特定言語に縛られない音声を出しているが、 次第に幼児の周囲で話されている言語の音声へと変貌する。 そして実は、幼児は、みずから母語の音声を発する前から、 周囲で話されている言語を理解できるようになっているらしい。

2.2 「小学校での英語教育」を考える:2つのポイント

さて、小学校での英語教育に話を戻そう。 中学校で英語を学び始めるより、小学校で始めた方が、 確かに早い時期に英語という言語に触れるので、 獲得が容易であるに違いない、という推測がある。 しかし、それは、
小学生が
(1)「どのような環境で英語学習をするか」
(2) 「英語の何を学ぶか」
という2つのポイントを抜きにしては語れないことを忘れてはならない。

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