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top[2005/07/18,7/19,8/13] フランス語賠償訴訟:石原知事の反論にならない「反論」

2005年7月18日<news>

[2005/07/18][2005/08/23]更新

1. はじめに
首大サポートクラブ(The Tokyo U-club,2004年10月19日)での石原東京都知事によるフランス語に対する暴言に対して、 「石原都知事のフランス語発言に抗議する会」は7月13日(水)に東京地裁に提訴した。
これに対して、石原東京都知事は、7月15日(金)の定例記者会見で、「反論」 を繰り広げたという記事がマスコミ各社から発信された。

2. マスコミ各社の報道
ここでは、マスコミ各社の報道を Web 上の記事からの部分引用という 形で、知事発言に絞って、まず紹介する。

朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0715/TKY200507150434.html
タイトル:フランス語賠償訴訟、石原都知事が反論

…同知事は15日の記者会見で 「言語が、不便だからという理由で忘れられていくというのは非常 に残念な気がする。そういうことで申し上げた」と反論した。
 石原知事は仏語や仏文化に愛着があるとしながら、「91」を「四つの20と 11」とするなど仏語独特の数え方を挙げて「かつて外交官の公用語として幅を きかせたが、科学技術の討論をしたりするときに非常にやっかいなんで、だんだ ん外れていった」と指摘。提訴に対しても「批判が当たっているか当たっていな いか真摯(しんし)に考えるべきではないか」と反論した。

読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050715i317.htm
タイトル:仏語問題で訴訟、石原知事は「文句は仏政府へ」

…石原知事は15日、記者会見で 「フランス語の先生たちにはうっぷんがあるかもしれないが、 仏政府に文句を言ったらいい」と述べ、発言を修正する考えがないことを 明らかにした。
 石原知事はフランス語について、「例えば91は『4つの20と11』と数える」 と複雑さを紹介。「かつては外交官の公用語として幅を効かせたが、科学技術の討 論の際には非常にやっかいなため、だんだん使われなくなった」と語った。

毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/news/20050716ddlk13040033000c.html
タイトル:石原都知事・仏語批判:「失格発言」提訴に反論 「狭い世界では厄介」

…石原知事は15日の定例会見で「かつて外交官の公用語でフランス語が幅を利か せたけれども、世界が狭くなって科学技術(について)討論したり、協定したりする のに非常に厄介なので、だんだんと(国際語から)外れていった」と反論した。
 石原知事は「私はフランス文学が好きで、フランス語好きで人が読まなかったリラ ダンを読んで訳したこともある。フランス文化に愛着もあるし、尊敬している」と述 べる一方、「首都大学東京の開学に反対した多くは語学の先生。フランス語の先生は 10人近くいたが、受講している学生は1人もいなかった。結果、先進国の首都の大 学で語学に対する学生たちのフランス語の需要が皆無に近いのは残念だが、フランス もそういう事実は認めるべきだ」とした。

産経新聞
http://www.sankei.co.jp/news/050715/sha085.htm
タイトル:「仏語批判、真摯に考えるべき」会見で石原知事

…石原慎太郎(いしはら・しんたろう)東京都知事は15日の記者会見で、数字 を勘定する際の不便さなどを説明した上で「フランス政府に文句言ったらいい」と述べた。
 また「わたしはフランス文化に非常に愛着もあるし、尊敬もしているが、フランス語 の厄介さはだんだん阻害要因になってね。批判が当たっているかどうか真摯(しんし) に考えるべきではないか」と話した。 (共同)

2005年7月15日

このように各社の報道を並べてみると、いつものようにいったい本当はなんと言っ たのかが、気になってくる。幸いなことに、Web 上では、 7月15日の都知事会見 で確認できるし、石原都知事の会見内容 をテキスト化しているサイトでは、すでにこの日の会見の模様を、 ここで公開している。 興味のある方は、是非、参照して頂きたい。

このような会見の文脈からはずれて、手短に知事の「反論」をまとめるのは、 正直言ってかなり困難な作業である。ましてや、論理が飛躍しているから、 その部分を埋めて解説するのはさらに難しさを増す。 今回は、マスコミ各社の要約の問題点を指摘するのではなく、 都知事の「反論」が、反論になっていないことを、言語研究者の一人として、 コメントするにとどめたい。

3. 言葉と数
まず、石原都知事の会見内容 をテキスト化しているサイトから一部引用する。

 例えば電話がこのごろプッシュフォンになったよね。昔みたいにダイヤルをグ ルグル回すなら別だけど、プッシュフォンでポンポンと押していくときに、 「ちょっとそこに電話かけたいんだけど何番?」っていったときに、例えば局番 が91っていうときに、 ○○○○(仏語)って4を押しちゃったらもう駄目なんだ よ、ちゃんと聞かないと。4つの20の11って言ったら、つまり全部聞かないと91っ て・・・。こんな言葉はやっぱり○ ○○○。だから、かつて外交官の公用語と してフランス語ってのは幅を利かしてたけども、世界が狭くなっていろんな問 題が出てきて、特に非常に国際関係で重要な要因である科学技術の討論をした り協定したりするときに非常に厄介なんで、そういうことから段々外れてったん ですよ。

まず、冷静になれば、誰が考えてもおかしい論点を2つ指摘しよう。
(1) 「ある言語における数字の数え方」=「その言語そのもの」という誤った一般化。
(2) 「ある言語における数字の数え方」が厄介だから、「その言語が段々外れて」 いった、という理由づけ。

数字の読み方(=ある言語での表現の仕方)というのは、さまざまである。 石原都知事は、上の引用箇所の前に、タヒチのフランス語の例を挙げ、 「80のときは、4つの20」と表現するフランスのフランス語よりも、タヒチのフランス語は、「80」という数字を作っているから、 「向こうの原住民のほうがよっぽど合理的」と説明しているが、 これは「合理性」を偏見をもって定義しているからにほかならない。

ある言語の合理性とは、構成的(compositional) にできているか、 という意味でしかなく、その点で、どの人間の言語も構成的な側面を必ず持って いる。持っていなかったら、子供が自然に言語を獲得することもできないだろう。 「構成的」とは、簡単に言えば、 基本となる表現を組み合わせて、さまざまな多様な表現を作り出せる、 ということだ。

数字の表現も、その構成的な言語表現の一例でしかない。 フランス語の80の時の、「4 ・ 20」も、 91のときの「4 ・20 ・11」も限定された範囲内で構成的に作られている。

日本語は、91 をどのように言語化するか、というと、「きゅうじゅういち」、 つまり「9 ・ 10 ・ 1」としている。ドイツ語は、「1 と 9 ・ 10」 という。デンマーク語では、60を「3倍 20」,80を「4倍 20」 と表現する。それぞれ違ったやり方で、特定の範囲内で、構成的になっている。 これらの数字表現を比べて、どちらがより合理的か、と問うことは、 科学的に根拠がない。(実は、フランス語よりもデンマーク語の50, 70, 90 の表現の方がはるかに複雑だ。例えば、50を「(半分 3) 倍 20」 という。「半分 3」で表すのは、「2と2分の1」。そうすると、 70, 90 の言い方も想像できるはずだ。興味のある人は、調べてみましょう。)

構成的な言葉の性質と並んで、より直感的に処理できる情報形式も言語には存在する。それは、 音と意味内容が直結した形式であり、そこには、構成的という性質は必要ない。 音イメージを瞬時にそのままの形式で処理し、 その対象を定めるように使われる点で、右脳的と言えるかもしれない。

数字は、幼いころから繰り返し使われ、生活上必要不可欠なものとなっているので、 構成的性質を持っていても、言語の脳における処理上では、 この直感的把握形式が取られている可能性が高い。 これは、例えば日本人の普通の成人にとって、 数字の91を頭の中でいちいち「9」「10」「1」とは分解して理解していない、 ということと考えれば納得がいく(ゆっくりと分析的に考えれば、 構成性を意識することはもちろん可能である)。

フランス語の80の時の、「4 ・ 20」も、 91のときの「4 ・20 ・11」も、分析的に見た時に初めて、 構成的にできていることが分かるが、 実際にフランス語を母語とする者や、フランス語が堪能な人達にとっては、 quatre-vingts も、 quatre-vingts-onze も、数字の 80 や 91 と同じであり、 瞬時に理解される「1つのまとまり」であって、「4 ・ 20」や 「4 ・20 ・11」ではないのだ。

仮に、石原都知事の言うように、タヒチのフランス語が「80」という独自の数字 の読み方を持っているから、フランスのフランス語より合理的だとしてみよう。 そして、 それが理由でフランスのフランス語が衰退していると石原知事にならって、 主張してみよう。
そうすると、その同じ理由から、 タヒチのフランス語がより合理的なのだから、 フランスのフランス語を席捲して、世界で流行すると言えることになる。

しかし、 まさか、たかが数字の(普通その言語が堪能な人のしない)分析的な呼び方だけが理由で、 タヒチのフランス語が世界的に話者を増やしたり、 科学技術立国で使われる公用語になったり、 一躍国連の公用語になるか、と問われれば、 答えは、あきらかにノンである。 従って、最初の推論が間違っている。

さて、最後にプッシュホンの話題を考えてみよう。 フランス人、あるいはフランス語の堪能な人達は、 「91」は瞬時に理解される「1つのまとまり」 quatre-vingts-onze であって、「4 ・20 ・11」 と普通は分析して考えることはないのだ。 えっ、それができないって? できないのは、練習不足なだけで、 根気よくやれば、たいしたことなく覚えられるはずだ (まあ、あの説明を聞いていると、どうやら石原都知事は練習不足も はなはだしいようだが)。

 ついでに補足しておくと、「81」と書いてあっても、 「8」、「1」と読むことはどんな言語でもおそらくできることだろう。 プッシュホンで押し間違いをしたくないのなら、 一桁の数字だけで表現することだってできる。 どうやら、それくらいのことも想像できなかったようだ。

4. 知事の結論:ややこしい数字の読み方が、国際語の地位を失わせる?
「世界が狭くなっていろんな問題が出てきて、特に非常に国際関係で重要な要因で ある科学技術の討論をしたり協定したりするときに非常に厄介なんで、そういう ことから段々外れてったんですよ。」というのは、分かったような、分からない ような発言である。 煎じ詰めると、石原都知事の結論は、 「ややこしい数字の読み方が、国際語の地位を失わせる」、 という一般論を主張し、 その一例がフランスのフランス語だと言っていると解釈できる。

5. 数字と言語は違う
「数字」と「数字の読み方」を提供する言語とは異なる。 これほど簡単なことが、石原都知事には理解できないらしい。 次の箇所をご覧頂きたい。

これはイギリスが十進法と十二進法のペンスとシリングですか、ああいう二つ通貨 の使い分けをしてて、非常に回りが不便で、外国から言われて、結局、十進法に統 一したんでしょうかね。そういう努力を国語の改革ってものにも施さないと、言語そ のものが不便さで忘れられてくってのは非常に残念な気がしますね。ということで申 し上げたんでね。フランス語の先生たちは鬱憤やるかたないかも知らんけど、それだ ったらフランスの政府に文句を言ったらいいんでね。政府がそれをどう受け止めるか 知らないけども。

「そういう努力を国語の改革ってものにも施さないと、言語そ のものが不便さで忘れられてく」という主張は、 分かりやすく説明すると、 「わかりやすい数字の読み方に変えないと、フランス語は不便だと思われ、 忘れられていく」ということを言いたいのだ。そして、その「言語改革」 をする責任は、「フランス政府」にあると考えているようだ。

この2つの主張は、どちらもおかしい。 自分の話す言語の数字の読み方から判断して、 「他の国の言語による数字の読み方が合理的でない」というのは、 上で説明したように、科学的根拠は一切ない。 むしろ、自国中心主義の思い上がりが転じて、やつあたりをしている、 という感じでしかない。日本語を勉強する外国人にとって、 日本語には2種類の数字の読み方がある (「いち、に、さん、…」と「ひとつ、ふたつ、みっつ、…」)というのは、 結構な負担であり、上と同じ理由で判断すれば、 「わかりやすい数字の読み方に一本化しないと、日本語は不便だと思われ、 忘れられていく」となる。おそらく、 知事は、このようなことすら考えたことがないのだろう。

そして、「数字の読み方を政府が変える」などという暴挙は、 改革とは言えない。言葉は、誰かさんも最後に言っていたように、 「生きている」のであり、 政府が自在にコントロールできるようなものではないのだ。

優秀な数学者を数多く生み出したフランス語圏。 そんな事実を、石原都知事は、いっさいコメントしない。 「91」の読み方なんて、些細なことなのだ。練習すれば誰にでもできるようになる。 数を使って高度に抽象的な世界を構築することは、誰にでもできることではない。 言葉と数字は、「読み方」というレベルを越えて、数学者の頭の中では、 抽象的な思考のレベルでつながっているのかもしれない。しかし、 そんなことは、きっと彼にとってはどうでもよいことなのだ。 ただただ、「4つの20の1」が気にくわないのだろう。

6. そして本当に言いたかったこと:「自分でひたすら覚えた間違った数字」
そして、首都大学東京のサポートクラブで、本当に言いたかったことは、 この部分だ。

結局、私があのことを話したのは、確か首都大学東京の改革に反対してる先生の 多くが語学の先生だったんだ。で、調べてみたら、8〜9人かな、10人近いフラン ス語の先生がいるんだけど、フランス語を受講してる学生が一人もいなかったん だ。ドイツ語の先生は12〜13人いてね、ドイツ語を受講してる学生が4〜5人しか い なかった、確か、正確な数字は忘れましたけど。だから私はそれは非常にあ る慨嘆 を以て報告を聞いたんだけども。

しかし、この発言は、またしても間違った数字の繰り返しでしかなかった。
◎ 2003年12月24日の記者会見における都知事発言
◎ 2004年2月5日に管理本部のホームページに示された国際文化コースの案
◎ 2004年3月2日の都議会で大西英男議員に対する東京都知事答弁
◎ 2004年6月8日号の「財界」での高橋宏理事長予定者の発言
◎ 2004年10月19日,the Tokyo U-club での東京都知事のスピーチ
では,すべて同じ間違い「独文希望者2,仏文希望者0」 を繰り返しているだけなのだ。そして、時々細かい数字がかわったり、 「正確な数字は忘れましたが」と付け加えるのが都知事のやり方だ。

ちなみに、 当時の人文学部長は2003年12月25日に 「東京都による基礎データの歪曲に抗議する」という抗議声明を出し、 「開かれた大学改革を求める会」の声明(2003年12月27日)でも訂正を求めている。都立大学の仏文専攻と独文専攻は, 2004年6月19日に 雑誌「財界」編集部への抗議し,仏文専攻では, 石原東京知事に発言の撤回を求める声明を出し、 独文専攻では、2004年3月12日付の要望書を東京都知事, 並びに大学管理本部へ送付している。

これらの声明は、都知事にも、マスコミ各社にも送付されているにもかかわらず、 同じことを何度でも繰り返して言う石原東京都知事。 また、その間違いを知りつつも、公の場で都知事を追求しないマスコミの人達。 変じゃあありませんか?

事の真相は、2003年度のA類の学部2年生(都立大では、昼間部をA類、夜間部をB 類と呼んでいた。そして、A類の学生もB類の学生も同様に専攻を決めて、 学ぶことができた)が、「独文希望者2,仏文希望者0」だったという話だった。 これは、故意に単一年度のA類だけの専攻している学生を数えて、 当時の学生数全体の話のように歪曲して宣伝したものだった(従って、 当時の人文学部長は、「情報操作だ」と言って抗議したのだ)。

しかも、大学の中では、第2外国語としてフランス語やドイツ語を学ぶ学生は、 数百人の単位でいたことも、まったく眼中になかったようだ。あの言い方では、 どう考えても、本当に「フランス語を受講してる学生が一人もいない、 ドイツ語を受講してる学生は4〜5人しかいない」と信じてしまう。 そんな状況では決してなかった。 でも、またまた2005年7月15日に、記者会見の席上で繰り返してしまった。

石原東京都知事は、 本当のことは、知らないのだろうか? それとも、言いたくないのだろうか? そして、これまでの都立大の教員や学生の抗議を知っていたマスコミの人達は、 なぜ反論しないのだろうか?

答えは簡単である。怖いのだ。

そして、もう1つの答え。 反論をする場を与えてもらえないのだ。

背後では、東京都と何らかのつながりをもっている所で働いている人達。 彼らは、結局、少しくらいの暴言には、反論しない、 いや、立場上できないのだ。

こんなことがあっていいのか!? おかしいだろう!

更新箇所:

[2005/08/23] 東京都立大学人文学部長の抗議声明(「東京都による基礎データの歪曲に抗議する」)のリンクを追加。


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